だるま踊り
昭和43年が、明治100年目の年でした。日本各地で、100年目を祝う行事が催行されました。
調布市の企画は、「深大寺だるま踊り」でした。
なぜだるま踊りなのか、、、地元の方にヒアリングして歩きましたが、この行事の時には、小学生~高校生くらいで、言われるままに踊りを練習してだるまを被ったらしく、由来を知っている方には行き当たりませんでした。
ある時、大正天皇即位の年に、深大寺小学校の校庭で、ハリボテのだるまを被って行列をした写真が、調布市の資料集にあるのを見つけました。
おそらく、私の推測ですが、この大正天皇即位のだるま行列を復古したものではないか、と考えられます。
こちらがその画像です。(調布市、、、蔵)
当時の調布市観光協会の会長は、浅田平八さん(そばごちそう門前浅田修平さんの父)でした。
武蔵堺通りに面した、吉田カゴ屋さんが竹でだるまの本体を組み、その後、岩槻の田口物産で、紙が貼られ絵付けされました。
だるまさんの顔は、岩槻ですので、鴻巣系のだるま顔です。眉に。。とあります。
お腹には、深大寺のお蕎麦屋さんの名前が書かれました。
三鷹にお住まいの踊りのお師匠さん、藤間〇〇さんに振り付けをお願いし、レコードも作り、衣装も用意しました。
だるま踊りの歌詞は、浅田平八さんが考えられたそうです。
息子さんである、浅田修平さんは、お父様から、「この歌詞はどうだね?」と尋ねられたそうですが、当時高校生だった修平さんは、「そのことに全く興味がなくてね、生返事をしたのを覚えてる」のだそうです。
調布市の駅前の甲州街道を、秋の祭礼の時に、だるま踊りで練り歩いたそうです。
秋の祭礼と100年記念事業の祭りが同じだったのかもしれません。
(これを知る手がかりが現在ありません)
昭和43年、テレビ東京の「街ぐるみワイドショー」で、「深大寺」対「湯河原」の対抗戦に、このだるま踊りが登場しました。
深大寺は、お蕎麦屋さんはじめ、地元の皆さんが応援に駆けつけ、だるま踊りを披露♪
湯河原は、温泉街の芸者さんが踊りを舞います♪
ピン差で負けたそうです!!!
プロの踊りには叶わなかったそうです(残念)
深大寺から、たくさんの応援団が駆けつけました。
この時、だるまさんのお腹の文字は、全て「深大寺」に書き換えられています。
お蕎麦屋さんの文字が、スポンサー扱いになる、、とのことだったそうです。
何とも・・・
その後、深大寺小学校の運動会で、だるまさんを被りながら走ってバトンの役目を果たしたり、、
盆踊りで踊られたり、
また、昭和51年に、調布市グリーンホールが完成した際に、落成式で、このだるま踊りは踊られ、NHKでも放送されたそうです。
このだるまさんたちの記憶はこの辺りで途絶えています。
おそらく、、、、
この大きなだるまさんでプロデュースする旗振り役がこのあたりでいなくなったのではないでしょうか。
だるまさんは、お蕎麦屋さんの物置に仕舞われたり、破棄されるなどして、いつしか眠ることになりました。
私が、だるチャンの活動を始め(平成16年2004年スタート)、ものづくりに地域の母たち(子供同士が、深大寺小学校の同級生です)と共に面白く動き出したある日、そのお母さんが手振り身振り付けながらこう言ったのです。
「私が子どもの頃、お蕎麦やさんたちがでっかいだるまを被って踊っていたんだよね」
「えっ!!!!なにそれ!!!」
そこから私のだるま踊り復活劇が始まりました。
だるチャンの販売ブースを出させていただいていたそばごちそう門前さんのご主人(つまり浅田平八さんの息子さんである浅田修平さん)に、そのことを聞きますと、「そう、うちの親父がね、それに関わっていたの。レコードは、さぶちゃん(嶋田屋さんの弟さんの故嶋田三郎さん)が持っていると思うから聞いてみて!
三郎さん、「この引き出しの中にだるま踊りのレコードあるよ。どうぞ!!」
そのレコードを持って、道向かいの当時仲良くしていた、お蕎麦やさんのいづみやさんに「だるま踊りのレコードが出た~~~」と行くと、「うちの物置にこのだるまあるよ!」
「えええ~~~~」
レコードとだるまを持って、そばごちそう門前さんに興奮して駆けつけると、、、
深大寺のお蕎麦屋のご主人たちが会合中。
「まだのこっていたのか、奇跡だな~~」
「うちにもあるよ」
「確か深大寺小学校にもあるはずだ」
・・・・・・
あれよあれよと、全部で7体のだるまさんがお日様の下に出てきました。
平成20年(2008年)の1月のことでした。